いわゆる「精神的に自立している人」というのは、恋人ともほどよい距離感で、節度を持って接することができる人だと思っています。
仕事をして、適度に恋人と会って、適度に友達とも遊んで、趣味の時間も大切にして、というイメージです。
でもそういう自立してる人ほど、友達と恋人との区別がつきづらいんじゃないの?と思ってしまいます。
私は常に恋人最優先にしたいので、仕事終わりの短時間でも会いたいからできる限り時間は作るし、家に帰っても毎日メッセージや電話をたくさんしたい派です。
それが恋人と友達との境界線であり区別だと私は思っているのですが、これが大抵の人からすると、重いとか依存っぽいとか思われて引かれてしまうことも分かっています。
自立している人にとって、友達と恋人との差ってなんなんでしょうか?
毎日連絡を取らなかったりしばらく会えなかったりしても、気持ちが冷めたりとか、浮気されてるかもという心配はしないのでしょうか?
気持ちに何らかの違いがあるとして、それを言葉以外の方法(行動とか)で示したりすることはあるのでしょうか?
あまりまとまってなくてすみません。
自分も恋愛観を考え直したいとおもっているので、いろんな人の考え方が知りたいです。
この相談の回答期限は終了しました
ただ、恋愛を生活の中心にするというより、「自分の生活や精神がまず自分の中で成立している」感覚に近いのかなと。
だから毎日連絡を取らなくても、頻繁に会わなくても、不安や愛情の低下と直結しない人も多いんだと思います。信頼が前提にあるから、「連絡が少ない=気持ちがない」とはならないというか。会ってない時間、連絡を取っていない時間恋人のことを考えることはないとかはないです。普通に考えます。
ただ、自立している人にとっての恋人との違いって、常に一緒にいることより、「この人には自分の深い部分を共有できる」とか、「人生の選択に自然と相手が含まれている」みたいな、精神的な特別さなのかもしれません。
説明難しいですが、友達も恋人もどちらも大切ではありますが、そこに対する好意というか愛情の形はハッキリと違います私の場合は。
友達と恋人は全然違うよ。
それなのに恋人から「私と友達どっちが大事?」とか言ってくる人は自立できてないと思ってしまう。
何も悪くないのに、そういう風に言わせてしまっている自分も悪いのかなと申し訳なく思ってしまって負の連鎖が続きやはり上手くいかない。
一度浮気してしまったならもうどんな態度や言葉で示しても無理でしょうね。
セがきっかけの出逢いなんかも、いくら身体の相性が良くてもお互いに相手を信じられないでしょうね。
わざわざ言葉や行動で示さなくても信頼している者同士は信頼しあえています。
それが自立している人同士です。
私は友達の延長線上のようなところに恋人という存在があるように感じているので区別がつきにくいです。
以前に考えた友達と恋人の明確な違いは、自分を多少ならば曲げても良いと思えるかどうかです。
例えば行動でいうなら、
今日は疲れているから会いたい気分ではなかったけど、恋人に会いたいと言われたから会いに行く
自分は記念日や季節のイベントを強い思い入れがあるタイプではないけど、恋人が喜んでくれるから一緒に楽しめるように計画する
などは実際にしていましたね。
丸1日挨拶すら連絡がなかったら浮気の心配はしませんが元気に生きているのか?の心配はします笑
主さんの年齢がお若いのかな?と思いました。
私と彼女は共有の趣味もあれば、それ以外の趣味もあるし、仕事の繁忙期も違うので常に最優先と言う関係では無いです。ただ、お互い仕事でもOFFでもお互いのスケジュールは把握してるし、出かける前とか余裕があれば途中経過や帰宅したら連絡は必ずします。恋人だから成立すると思うし、普通の友達なら細かく連絡しないので。
後、浮気されてるのかな?とか嫌われたかな?とかは嫌になったら惰性で付き合いを続け無いとお互いに伝えてあるし、浮気を疑って嫌な気持ちになるなら彼女を信じる事が良いと考えます。
私達は年齢も付き合いも重ねて来たから言える事かも知れません。
私の場合ですが恋愛観というよりは、回避依存の傾向があり一人の時間が多くないと疲れてしまいます。
なので、好きな人には依存はするが、相手から依存されすぎた経験から疲れ果ててしまい、一人の時間を多くとりたいと思い、現在は自分のペースでやり取りができるように極度に依存する依存型の人とは距離をとっています。
なので、結果的に精神的に自立しているように見えてしまっているかもです。ですけど、恋人には連絡は気づいたら出来るだけ早くすぐに返信はしますし、友達は後回しにしがちです。その点は恋人と友達との差なのかなと思います。ただ、毎日のやり取りだと相手に気を遣いすぎたり、返信に困ってしまい気疲れをしますので自分のペースに合わせてくれる人が界隈には多くない為、結果的に人との連絡にも距離を取るようになりました。それに伴い、一番仲の良い知人との連絡も1ヶ月に数回あるかないかくらいです。知人との連絡が全くない月でも平気な時があります。
自分の疲れないペースで連絡ができ、相手との安心な関係が築けるならやり取りが続けられるのかなと思います。ようは疲れやすい体質だと思って貰えたら。
このサイトにあるように
「デート後は一人の時間がないと息がつまる」
「連絡が頻繁に来ると、返信する義務感で苦しくなる」
こういう傾向があり、心がすぐに疲れてしまうので、あまり恋人と連絡を取らずとも平気な時があります。その場合は仕事に打ち込んでいたり、趣味を充実しており一人で楽しんでいる事も多いです。恋人がいる場合は友達ともやり取りはほぼなくなり恋人のみのやり取りをするので、返信がない場合は心が疲れているか仕事に打ち込んでいるか趣味を楽しんでいるのかなと思って頂けたらありがたいですが、たぶんこの界隈だと理解されづらいタイプなのかもしれないです。
すごこれこんな画像付きで引用とかできるんだ
やり方知りたいかも笑
“闺蜜”は“闺密 guīmì”とも書きます。“闺”という字は“闺女 guīnǚ”(娘)などと使われ、元々は女性の寝室のこと、そこから「女性」を意味します。“闺蜜(密)”で「女性の親友」を指します。なんで“蜜(密)”なのか、これは“闺中密友 guīzhōng mìyǒu”(女性同士の親友)から来ています。ですから本来“密”と書くべきでしょうが、そこはやはり女性を指す言葉ですから、“蜜”(ハニー)に換えたのでしょう。
中国の“朋友”は重く深く熱い!
中国人にとって“朋友 péngyou”の言葉の意味は、日本語の「友人」よりはるかに重く深く熱く、中国人から見た日本の「友人」はあまりに軽く浅く冷たいものです。要するに中国人にとって“朋友”とは三国演義の桃園の誓いのようなもので「同年同月同日に生まれることはかなわなくても、同年同月同日に死にたいものだ」という関係です。友が死ぬ時は自分もいっしょに死ぬのです。「そんなおもーい関係まっぴらごめん!」と大半の日本人が言うことでしょう。でも今時の中国人も三国演義の時代とあまり変わらない「友人観」を抱いていて、この日中の差は超えられない深い谷、千尋(せんじん)の谷です。
生き抜くのに厳しい社会
なんで!? 私が観察するところ、要するに中国社会は生き抜くのになかなか厳しい社会だからです。自分と無関係の人間にはほとんど関心を払わない社会(そのわりに電車の中で老人に席を譲る率は中国の若者の方が圧倒的に高い…)。そうした社会で「コイツなら信頼できる」と思ったら、互いに「迷惑」(としか日本人には見えないモロモロの用事)をかけ合い、その都度きずなを深め、この厳しい人生をともに生き抜いていくのです。
中国式友人の助け合い
そうした中国の「友人観」の中で、“闺蜜(密)”は「友人の中の友人」つまり「親友」です。どれほどの絆(きずな)か日本人の想像をはるかに超えます。女性の友人なんて男と違って深くはならないだろう、せいぜい一緒にランチを食べるとか旅行するとか…いえいえ、たとえば親友がローンの支払いに困っていれば日本円で何百万もの貯蓄をポンと出すとか、離婚した親友を一時自宅に引き取るとか、これはみなテレビドラマの中の話ですが、実際の姿を元に描かれています。もちろん立場が逆になれば今度は尽くしてもらった側がとことん尽くします。これはもちろん男性も同じなのですが、女性でこうした関係になれるのが“闺蜜(密)”なのです。
友人とは迷惑をかけ合う存在
ある中国人留学生が言いました。「日本人は友人どうしでお金の貸し借りはしない? じゃ友人は何のために存在するんだ?」って。この話を他の日本人に伝えるとみな一様に軽蔑の色を顔に浮かべます。「民度低すぎ!」「ただ利用し合っているだけじゃん」。でも中国人に「日本人は友人どうしでお金の貸し借りはしない」と言えばおそらくほとんどの人がこの留学生と同じ反応をするでしょう。中国でお金に困れば友人どうしで助け合う、これは非常識なことではありません。日本人のように「友人と大きなお金の貸し借りはしない」が常識になっている社会とは違うのです。迷惑をかけた、それでも助けてくれた、だから深い感謝と信頼が生まれます。確かに利用し合うのですが、そこに感謝や信頼といった感情があることも事実です。“闺蜜(密)”はそうした濃厚な人間関係(女性に限りますが)を意味する言葉です。
1文字目で読む気なくした
同じく。



すごく分かりやすい。
言語化の天才ですね